正解は、「緑」です。
え?グレーに見えた?
それなら、「グレー」も正解!
黄色に見える?
なら「黄色」も正解!
他の色に見える?
だったら、「あなたに見えた色」が正解です!
そう、このオタマの色に正解なんてものはありません。
あなたに見えた色、感じた色が、あなたにとって正しい色です。
何色に見えたっていいし、人と違っても構いません。自信を持っていきましょう!
これはセクシャリティ(性的指向・性自認)も同じですよ!
世の中の「正しい」は、ほとんどが「多数派の意見」というだけ
これ、元々はグレーのオタマでした。カレーを作った時に、色が移ったんでしょうね、色が変わってしまいました。
僕「あー、緑に変色したなー」
と発言したところ。隣にいた彼女が
彼女「え?黄色じゃない?」
と答えます。
僕にとってはどう見ても緑です。しかし彼女はどうみても黄色と答えます。面白い。
そこで互いの友人知人に画像を見せます。
返ってきた答えは様々で、「緑に見える」「深緑に見える」「黄緑に見える」「グレーに見える」と色々な人がいました。面白い。
多数派は「緑」だったようですが、別にこのオタマが何色に見えようが構いません。むしろ人によって見え方が違う方が面白いし、違う色に見えるのが当たり前だとも思っています。だって人はそれぞれ違うんだから。
これって他のことにも言えると思うんです。
冒頭でも言いましたが、セクシャリティの話だってそうです。
世間一般では、「異性愛者」が正しいこととして認識されていますが、それ以外にも性的指向は色々あります。
僕としては、すべてが一様に正しいものだと思っています。だって、その人が「同性が好き」っていうのであれば、それがその人にとって正しいことなんですから。それは変えようもないし、変えるものでもない。
ただ、世間は異性愛者以外を異端として見ます。「正しい」から外れた人を排斥したがります。それがセクシャルマイノリティを傷つけています。
しかし、その「正しい」って、結局は「多数派の意見」というだけなんですよね。
オタマの話に例えるなら、「緑」以外に見えた人を、バカにしたり差別したりするようなもんです。馬鹿らしくない?
救うべきは、「正しさ」に囚われた日本人
実は僕自身もセクシャルマイノリティです。昔は、人と性的な価値観が違うことに悩んでいました。
もちろん僕は、「自分の意見が絶対正しい!」と思っていましたし、今でも思っています。
しかし、それはあくまで自分の中での話。人によって違うのは当たり前で、なぜみんな「自分が正しいと思うこと」や「自分の価値観」を他人に強要するんだろうと、不思議に思います。
まぁ、「自分の価値観を強要したい」という価値観も認めるけどね。(鬱陶しいけど)
しかし、日本の状況などを考えると「人と違うこと」を差別する理由もなんとなく分かります。
かつての大量生産型の工業社会では、皆が同じものを求め、同じ価値観である方が、企業側としては楽でした。だって、同じものを大量に生産すればコストはその分下がりますからね。
それは、政府主導で行われたことでもあります。経済成長を成功させるために。
そのため、日本の教育現場でも「人と同調すること」「足並みを揃えること」「教師の言うことを聞く事」が重要視されて、実際にそのようにかつての日本人は教育されてきました。それが、その当時では「正しかった」のです。
海外と比べて、日本ではセクシャルマイノリティへの理解はあまり進んでいません。特に今の20代よりも、50代や60代のセクマイへの理解のなさは皆さんもなんとなく肌で感じるのではないでしょうか?
だって、それは「みんなと違う価値観は間違っている」と教育されてきた世代だからです。
もちろん、社会の流れに上手く順応してきた方たちは、セクマイへの理解もありますし、世間と違う価値観への理解がある方もいらっしゃいます。
しかし、社会の流れについていけず、昔の教育が身に染みている人は、「自分と違う意見」を受け入れられません。
そのため、セクマイや世間の常識から外れた人を差別したり、攻撃したりします。それが彼らなりの「防御」なんだと思います。アイデンティティを守るためのね。
でもそれって、逆にかわいそうじゃない?
「自分の価値観」以外の価値観を認められないのは、さぞかし辛いことでしょう。
だから、僕は救うべきは「正しい」に囚われた日本人の方だと思ってる。
オタマの色は「いつも同じ」ではない!?
オタマの画像、実は一枚だけではありません。他にもあります。
これとか
これとか
さて、一番最初のオタマと同じ色でしょうか?
違うよね?(同じに見えてもいいんだけど)
ただ、オタマ自体は何も変わっていません。
変わったのは「背景」や「光の当たり具合」だけです。
例えば、光が強く当たっていれば、僕は「黄緑」に見える。さっきは、どうやっても「緑」にしか見えなかったものが、別の色に見える。面白い。
結局、「正しい」に囚われた人は、同じ角度から同じ状況でしかモノを見られないだよね。オタマは手元で角度を変えたり、背景を変えたり、光の当て方を変えられるから分かりやすいんだけど、世の中全てのものが、同じように手元で角度を変えたり、背景を変えたりできないから話をややこしくするんだけどね。
ともかく、上の画像は「本質は変わっていないのに、周りが変わるだけで価値観は変わる」ということを、ものすごく端的に表したいい画像だと思うんだけど、どうだろうか?
まとめ
さて、いつものように、話がぜんぜんまとまっていないのに、無理やりにまとめます(笑)
僕は、アセクシャルを自認する前は「性的指向がない」ことや「恋愛指向がない」ことを他人が理解してくれないことにイラついていました。
なぜ、人はみな「異性愛者」であり、大人であれば「恋人」もしくは「配偶者」がいなければならないのか?なぜ、「性的指向」も「恋愛指向」もないことに誰も理解してくれないのかと。
しかし、逆に考えると、「自分と違うことを理解できない」というのは普通のことで、むしろ僕の方が「相手がアセクシャルを理解できないことを理解するべきではないのか」という結論に達しました。
言ってみれば、僕も「自分の価値観」つまり「正しい」に囚われていたんだと思います。その自分の「正しい」なんて相手は理解できないのは当たり前、その理解できないことを理解してあげないと、どちらも不幸なままだと気がついたんです。
なので、セクマイで悩んでいる人。例えば親が同性愛について理解を示してくれない人などは、「相手が理解できない」ということを少しでも理解しようとしてあげて下さい。「異性愛者」の親の立場にたってみて、理解しようとしてあげて下さい。
救うべきは、「正しい」に囚われた相手の方です。誰が手を差し伸べて上げられますか?
あなたしかいないでしょう。