Aセク、パパになる

AロマAセクが何か言います

子どもが生まれました。

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我が家に子どもがやってきて、どうやら私はブログ名通りに父親になれたようです。
 
とはいえ、生まれたのは2ヶ月以上も前こと。
 
生まれてからの1ヶ月間はとても忙しかった。子どもいるだけで、こうも生活が変わるのかとビックリした。
 
ブログを書く暇なんぞなく、ツイッターも覗けない。そんな日々。
 
休日は全て子どもに関する用事で埋まり、息抜きと言えば子どもが寝た後の少しの間の昼寝くらい。
 
平日は仕事から帰えれば自分がお風呂に入り、そのまま子どもも綺麗に洗う。
 
夕食は妻が作ってくれているので、一緒に食べる。
食事中もミルクが欲しいと泣くので、妻は母乳を上げながら食事をする、器用な技を身に付けていた。
 
 
夜は2~3時間置きに泣き、オムツを替えてミルクを飲ませ、ゲップが出るまで背中をトントンと叩きつづける。
 
寝不足にもなるし正直しんどかったが、静かな夜に、情報量の少ないテレビを見ながらミルクをあげるのは、なんとも言いがたい幸せな気持ちを感じられる。
 
一度は諦めていた。手を広げ必死に汲み取ろうとしても、指の隙間からこぼれ落ちていた感情が、いまは腕にしっかりと抱けていることに、何か偉業を成したかのような強い感動を覚える。
 
 

妻には感謝しかない

 
自分は結局のところ男性であり、お腹の中で子どもを育てることは叶わない。
 
叶わないけど、妊娠したいか?と聞かれたら正直に「それは嫌だ」と答える。
 
自分の身体に生命が宿る恐怖、責任感。以前より身体も思うようには動かせないし、体調も悪くなる。仕事だって休まなければならない。
 
その間の生活はどうするか?
産休中に給与が出るといっても支給額は減るし、そもそも満額貰っていても子どもを育て上げるには足りないかも知れない。
 
結局は相手を頼るしかないのだが、お腹に子どもがいない男など、逃げようと思えば逃げられてしまう。
 
お腹に子どもを抱え、そして相手も信頼しなければならない。子どもの命に対する責任も勝手に背負わされてしまう。普段とは全く異なった環境に、妊娠した女性は投げ込まれるのだ。
 
それが自分の身に降りかかるとしたら?
自分なら拒絶する。
 
結局、自分は妊娠することはできない。
妊娠の苦しみや出産の苦しみを知らないし、正直味わいたいとも思わない。
 
男性が「子どもが欲しい」と思うことは、とても自分勝手でおこがましい願いだと、肝に銘じておく必要がある。
 
だからこそ、その自分勝手でおこがましい自分の願いを叶えてくれた妻には感謝しかない。
 
Aセクシャルという「他者に性的欲求を抱かない」というセクシャリティの自分だが、性的な行為に対して嫌悪感が薄いのは、恐らく妊娠をしない身体故、妊娠嫌悪をすることがないからというのは大きいポイントなのかも知れない。
 

命の誕生は素晴らしいが、出産は残酷

 
陣痛が始まり、12時間たたかい続けた妻。
初産の人としては平均的な時間らしく、恐らく周囲からは「安産」と言われる。
 
ただ、それは結果だけを見た話で、その12時間の戦いの内容は、決して楽なものではないと隣にいた(いることしかできなかった)自分でも分かる。
 
食事もろくにとれず、食べても吐き出してしまう。夜中に病院行ったため、眠たそうだが陣痛で睡眠をとることはできていない。
 
衰弱しているのは見て分かるが、何もしてあげられない。
 
声が枯れるほど「痛い!」と叫び続けても、自分は背中をさすることしかできない。
 
 
陣痛が弱かったため、促進剤を使うか、一旦抑制剤を使い、分娩を明日に延ばすか右往左往。弱かったと言っても、痛いことに変わりはない。
 
臨月にかかる前までは「帝王切開はしない。お腹に傷が残るから!」と強く主張していた妻が、泣きながら「切ってください。お願いします。」と頭を下げて何度も医者に懇願する姿は、滲んだ風景と共にしっかりと目に焼き付いている。
 
 
出産は残酷。
 
 
だから、これから出産を迎える妻がいる人には「絶対に側にいてあげて」と言いたい。
 
どれだけの時間、どれだけ妻と子が苦しみ、どれだけの人が支援をしてくているのか、絶対に知っておいて欲しい。想像するだけでなく、実際に目で見て。
 
そして、自分がどれだけ非力な存在か身を持って感じて欲しい。
 
だからこそ、妻と子どもが苦しみから解き放たれたこと、命の誕生に安堵できる。
自分の手で子どもを抱き、自分の手で子どもを育てられることに喜びを感じられる。
 
 

社会に対する責任を感じる

 
すでに子どもが生まれて2ヶ月が経った。
妊娠を告げられた時は6mm程度だった子が60㎝にもなるんだから、命って改めて不思議だなーと思う。
 
最近はよく笑い、よく飲み、よく眠り、よく動く。
首もまだ据わっていないのに、脚の力だけで布団からはみ出ていた時は、妻と顔を見合わせて笑った。
 
恐らくうちの子は、比較的手が掛からない。
夜はしっかり8時間寝るし、身体も丈夫で大きい。夜泣きは皆無。
ほとんどぐずりもしない。
 
今は声を出すことが楽しいみたいで、気が向けば言葉にならない音を出してる。
それに反応してやればケタケタと笑う。
 
 
愛おしい
 
 
その一言しかない。
 
 
このままずっと側にいて欲しいと思うが、そうもいかない。
この子もいずれは「家族」という社会から離れ、様々な人と会い、様々な社会に触れ、自らの社会を確立していくはずだ。
 
親が子に関われる時間というのは、実はそう多くないのかもしれない。
 
だからこそ思う。
これからこの子が生きていく社会がより良いものになっていて欲しいと。
 
少なくとも、ため息をつきながら「人生」という道を歩いて欲しくないと願う。
 
親の責任。幼少期にどれだけ子に良い影響を与えられるか、それも確かに重要だと思う。
 
しかし、それ以上にこれから子どもが歩く道、つまり「社会」に落ちている障害を取り除くこと、それが親の一番の責任であるとも感じる。
 
社会がよくなれば、そこに生きる人間もよくなるはず。そこに生きる人間がよくなれば、社会もよくなるはず。
 
いたって単純。
 
ただ、実践することは難しい。というか、どうすれば「社会がよくなるか」というのは大きな課題であり、正解も一つじゃない。