Aセク、パパになる

恋愛感情・性的欲求を他者に抱かない「アセクシャル」が、結婚して父親になります

純度100%の恋心は、ただの毒

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人が誰かに恋をする姿は美しいと思っていた。
 
たしかに、誰かを好きでいる女性は綺麗になるし、誰かを好きでいる男性は精力的・活発的になり、恋をする誰もが魅力的になる。
 
Aロマ・Aセクの自分には持ち得ない魅力だったのかもしれない。多少なりとも憧れがあったのかもしれないが、恋心を持つ人はとても輝いて見えた。
 
 
しかし気がついてしまった。
 
僕が美しいと感じていたのは、「恋」ではなく、恋に付随する「愛」であることに。
 

時に愛は、恋の刺々しさを包むオブラートになる

 
知人の恋愛話を聞いて思った。
恋とはとても利己的な感情で、相手に対して「要求」する感情だと。
 
 
知人はとにかく結婚を望む人だった。
 
恋愛相手の男性との付き合いは深く、東京に出張へ出た彼に呼ばれれば、遠く離れた地方から会いに行くほどの熱狂ぶり。
 
口を開けばすぐに彼の名前が出てくるし、「話がある」と彼女が銘打てば、大抵彼との恋愛話が主題として挙がる。
 
普通なら「頑張ってね!」と応援する話だと思うが、問題は「彼が既婚者である」ということ。
そう、つまり不倫をしているということだ。
 
 
不倫だからダメと言うつもりはない。ただ、彼女が望む「彼との結婚」にたどり着くまでの道のりは、険しくそして遠い。
 
何度も「やめときな、その男」と言った。何度も「男はただヤりたいだけ」と言った。
 
ただその言葉は虚しく、彼女の心までは届かない。
 
自分はまだいい。直接の友人である僕の妻は、彼女の恋愛話に心労が溜まっているようで、そんな妻をみる僕も心苦しくなるのだ。
 

愛し合うは「与え合う」。彼女達は奪いあっていた

 

愛し合うとは、「与え合う」ことだと僕は思っている。

 
相手の望むことをしてあげる。与えられた人間は相手にも同じように、相手が望むものを与える。
 
 
しかしながら、彼女達の関係を見ていると、どうも「与えあっている」とは思えないのだ。
 
そう、「互いに奪いあっている」と表現するのに相応しい関係性だった。
 
彼女は彼に「愛すること、結婚をしてくれること」を要求し、彼は彼女に「身体」を要求しているだけで、そこに「愛」はない。
 
互いに自分が好きなように、相手から自分が望むものを奪うのだ。
 
そして相手から奪われたものを取り返す様に、自分が欲しいものを相手から奪いとる。その繰り返し。
 
一時の充実感は得られるかもしれない。
しかし、お互いが心から満たされることは、
永遠に訪れないだろう。
 
奪われると知りながらも、一時の快楽のために身を削り、彼の元へ飛び込む。
彼女は恋に落ちているのか。僕から見れば「依存している」様にしか見えない。
 

「要求」で相手を傷つけない様に人は恋を愛で包む

 
恋とは、相手に「要求する」感情だ。
何を要求するかは人によって違うのだろうが、自分の欲を満たすためのその感情は、そのまま相手にぶつければ、その刺々しさで相手を傷つける。もしくは相手から拒否されることだろう。
 
だからこそ人は、自分の要求を飲んで貰う代わりに、まずは相手の要求を叶え(与え)たり、「要求」が顕にならぬ様に愛というオブラートに包みこむのだと思う。
 
もちろん、要求をそのまま飲んで貰うのが一番楽で労力も掛からない。
しかし、誰からの要求も拒否することなく素直に受け入れる人は、まぁ、いないだろう。
 
だから純度100%の恋心をそのまま相手にぶつける人を見ることも凄く稀であり、大抵の人がいう「恋愛」とは、ほんの少しの恋心と、それを包む豊富な愛で構成されているのではないかと思う。
 
相手を想う気持ち。恋と錯覚されがちだが、それこそ「愛」なのだ。
 

Aセク、Aロマは「愛」の中心に何を持つ?

 
Aロマ・Aセクの自分も 誰かに対する愛は持っている。
ただ、すべての人に「愛」を持っているか?と訊かれたら、「それはない」と答えるしかない。
 
結局は、「幸せになって欲しい」と思う人に「愛」を持つし、どうでもいい人には「愛」は持てない。
 
となると、僕が持つ「愛」の中心には「その人に幸せになって欲しい」という欲があるというわけだ。
(幸せになって欲しいという欲が、どこから来るかは相手や状況によって異なるが)
 
結局自分も自分の欲のために人に愛を持っていただけなのか。
 
恋愛感情や性的欲求のように、相手へ直接的に何かを要求することはなく、刺々しさはないようにも思えるが、一番重要視するのは「自分の幸せ」ということだった。
 
それはそれで良いことなのかもしれないけど。
 

愛着する「愛」

 
美しいと思う感情は「恋」ではなく「愛」だった。
ただし、その「愛」自体は恋(または欲求)があるからこそ生まれていることも事実だと思う。
 
それは「愛」をコントロールするのは、コアにある恋であるということも意味している。
 
つまり、恋という感情が消え去れば、それに付随してきた「愛」という感情も霧散してしまう。
 
「なんであんな人が好きだったんだろう?」
というフレーズをよく耳にするが、結局それは、恋という感情がなくなったが故に、愛もなくしてしまったからだ。
 
それとは逆に、
「恋心はもう抱いていないけど、相手のことは愛しているよ」という人もいるかもしれない。
 
たしかに、初めは恋から生成された愛で、相手を包みこんでいたのかもしれない。
ただ、「恋」がなくなってもその愛が無くならず 、相手にしっかりと着いている状況もあり得る。
 
それは「愛着」と呼ばれ、恋などの自身の欲求がなくても「愛」が存在する状況だろう。
 
 
いや、厳密にいうと「相手の幸せを願う」という自身の欲求によって、相手への愛が生まれるのか。
 
結局は「愛」とは自身の欲求から生まれるものだったのだ。
 
 
愛深き人は、もしかしたら欲深き人なのかもしれない。